「タイランド車いすテニスチームのサポートから得たもの」インタビュー/こすげ鍼灸接骨院院長小菅英二さん (昭和58年卒)

こすげ鍼灸接骨院院長小菅英二さん
(昭和58年卒)

「東北ジュニア選手の育成には暑い国がいいかなって」(育成には)

―サポートのきっかけはなんでしょうか。

 僕は三十代の後半で、骨接ぎの養成学校に行こうと思ったんです。当時国体の選手兼監督をやっている時があって、当時神奈川県って結構強いんですよね。勝ち進むにつれて選手も相当ぼろぼろになっていくわけですよ。そんなときに、何もしてあげられない、アドバイスもできないっていうのがあって。

自分でも何かしないと、勉強しないといけないなと思って。自分もテニスのコーチだったとき肘を痛めてしまってどうしても治らなくて、ますます何か自分でも勉強しないといけないなと思うようになったんです。
 ちょうど近くに日体大の接骨養成学校があったので、東北学院大学の同期の村田(様)に相談したら、「ちょっと待て、もっといいところがあるから。紹介するから是非こっち(東北)に来い」って言われて。昼間は彼のテニススクールを手伝って、午後養成学校に行けばいいっていうわけなんです。

「何のアポイントもなく押しかけました」

 それで、仙台に行くことにして3年間養成学校に行きました。でももっと勉強しないといけない、これくらいで開業してはまだまだだ、患者さんに失礼なんじゃないかと思って、その後また3年間今度は別の学校ですが東洋医学の鍼灸科を勉強したんです。
 そうこうするうちに、テニススクールの方でも会議にも参加できるほどになり、気候のせいでどうしても練習期間が短くなってしまう東北ジュニアを強くするために、冬の間にどこか暑い国で練習しようってことになって、お前海外行ったことあるなら視察に行ってきてくれって言われて。じゃあどこにしようかな、暑い国で、そこそこ選手もいるタイがいいかなって決めました(笑)
 それで、ナショナルテニススタジアムになんのアポイントもなく押しかけて行ったんですよ。そしたらとても快く受け入れてくれて。そこのヘッドコーチが、「いいよ、いつでも来てくれ」ってとてもフレンドリーで。それで東北のジュニアの代表選手をタイに連れて行ったんです。そうしたらとてもいい合宿ができて、成果もあって。
 そこで仲良くなったムーコーチが「お前トレーナーもできるのか、ちょっと別な話があるんだけど。うちの車いすテニスのチームのトレーナーをやってくれないか」って言うんです。それで、アジア選手権や北京のオリンピックパラリンピックなんかにも一緒に行くようになって。それがもう10年前になります。

「本当に涙が出るほどうれしかった」

―私はちょっと勘違いしていて日本の技術、車椅子をサポートされたことがきっかけなのではないかと思っていました。

 それもしました。うちの兄貴もテニスコーチだったんですけれども、たまたま障害者の方に教えてたんですよ。その兄貴がとてもアツイ人で障害者の方に教えるには自分も車椅子に乗らなきゃいけないって言うんで、自分用の車椅子を持ってたんです。兄にタイチームの話をしたら、もう自分用の車椅子使わないからあげるって言われて、それをタイに持って行って寄付したんですよ。そしたらすごく喜んでくれて。国の体育協会の人とか、えらい人がたくさん来てくれてなんか表彰式みたいなのやってくれたんですよ。

そうこうするうち、僕がそういうことをやってるっていうのが大先輩の山梨さん(OB)の耳に入り、話があるって急に呼び出されて、お前がそういうことやってるんだったら何か協力してやるよと言われて。タイの車椅子って言ったら日本のものと比べるとものすごく遅れてるんですよね。型式とかが。サポートなら、車椅子を作っていただけないですかって山梨さんに言いました。じゃあ俺が作ってやるって言われて。

日本でJAPAN OPENっていう大きな試合が福岡であるんですよ。そこに山梨さんも一緒に来てくださって。そういう試合会場には、車いすメーカーが来ているので、そのメーカーの人と、選手と山梨さんが寸法を測ったりして、その後実際に千葉の車椅子メーカーまでわざわざ付き合ってくださって、どれが一番いいかって聞かれて。山梨さんは、金額はいいから選手にとって一番良いものを作ってやってくれっておっしゃるんです。本当にもう涙が出る話でしたよ。

―(一同うなずく)それをタイに送られたわけですか。

 そうそう、千葉で作って僕が梱包して2台タイに送りました。そしたらタイの人たちも感動して、前と同じように、いやもっと盛大にセレモニーをやってくださったんです。その時には、山梨さんも、いつも福岡でサポートしてくれる森戸(さん OB)たちも、静岡の協力してくれたチームとかも、みんなで行きました。

―それからずっとタイチームのサポートをされていらっしゃるのですね。

そうですね、今はそんなにちょくちょくは行けないですけれども、行けばコーチと体のケ ア両方します。トレーナー兼コーチってわけです。

「障害者になろうと思ってなる人はいないから難しい」

―では2020東京オリンピックパラリンピックの時は行かれますか。

もちろん仕事は休んで(笑)全力でサポートします。

―そのときへの想いがありましたら教えてください。

車椅子の競技って、障害者の種目は何でもそうだと思うんですけれども、なりたいと思って障害者になる人っていないですよね。だから選手育成っていうのが結構難しいんですよ。タイのチームは特に新しい選手が育ってないんで、割と古株の選手が多いんですよね。平均年齢が30後半から40代と、若さっていう面では劣っていても、みんな一生懸命やってるから何としても、少しでも勝たせてあげたいなと思います。

―小菅さんご自身が活動によって影響を受けられた部分はありますか。今までテニスのコーチや接骨のお仕事をされていて、その中に車いすテニスという部分が加加わって、ご自身の変化のようなことがあれば教えてください。

脊髄を損傷するとか、机の上では結構勉強してきたんですが、そういう事って段階があって。その日の夜とか、一週間経った時とか、死んじゃいたくなるとか、そういう気持ちの段階があるんですよね。だからそういう人と実際会って話したりして、本当の気持ちみたいなものを聞けたことが大きくて。怪我をした人の治療を仕事にしている上で、心のケアがいかに大事かっていうのが分かりました。
 また、ジュニアのテニス選手で大事な試合前に怪我で落ち込んじゃってどうしようもなくなっている子たちがいるんですよ。そういう子に脊髄損傷の話をして、お前の怪我なんて、それに比べれば何でもないんだぞって言えたりと、そういう意味ではすごい勉強になりましたね。

「そんな付き合いが今でもあることに感謝です」

―では最後に、青学のテニス部のことについてよろしいでしょうか。

インカレやジャパンも出場されたとのことですが、現役時代の思い出はありますか?

いっぱいあるからどれから言っていいのかわかんないけど(笑)山梨さんが練習に入られると、木刀を持ってるんですよ。それが当時は怖くてね。(実際に使用されたことはないそうです)今はやるのかな、振り回しってのがあったんですよ、必ず合宿とかで。OBの方たちが来るとまず振り回しが始まる。もう絶対取れないようなボールが来るわけですよ、ようはしごきです。今はそれが本当にいいことなのかどうかわからないけれども、でも僕はそれをやってもらって、意識が遠のくような厳しい経験をさせてもらって良かったと思ってます。
 そういう経験をしてないと人にも言えないし、自分の限界を知るっていうのはとっても大事なことだと思います。今思えば本当に感謝しかないです。だってね、遠いところからわざわざ来てくれて、当時はもちろんそんなことは全く思わなかったけれども、でも大人になってこうやって車椅子にも付き合ってくれて、お前がそんなことやってるんだったら手伝ってやるよ、サポートしてあげるよと、そんな付き合いが今でもあるって言う事が、青学のテニス部でいたからそういうことができたんだと本当にありがたいです。だからこれからはテニス部に恩返ししなきゃいけないなって思っています。

「毎日コツコツやることは自信につながる」

―最後に現役部員へのメッセージと青学テニス部100周年に向けて一言お願いします。

現役選手は、個人個人の目標を高く持って頑張っていただきたいです。日々少しずつでいいですから自分だけのやるべきことを、自分なりのプログラムを決めて、コツコツ毎日やってほしいですね。それは必ず自分に返ってくるし、何が大切かって、苦しいときの自信につながるんですよね。その自信が、試合に勝つことにつながってゆく。みんなでやることも大切ですけれども、自分で考えて毎日コツコツやるっていうのも大事です。先輩の上野さんが「コツコツ」という詩をコピーして部員全員に配ってくれて、今でも忘れないですよ。毎日少しずつやりなさいっていう詩なんです。それを今でも自分は持っててコツコツ毎日少しずつですけど、トレーニングは少しずつやってますよ。そのおかげで怪我も少ないし。これは絶対オススメです。

百周年については、たくさんの OB の人に集まって頂いて盛大にやりたいですね。伝統ある青学テニス部ですから。何か役に立てることがあれば、OBの力を合わせて、全力で現役選手をサポートしたいと思っています。
 (終わり)